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丹羽文雄

両側の田圃は菜の花のさかりであった。黄色の毛氈を敷きつめたようである。うす甘い菜の花の匂いが漂っている。「菜の花は鮮明であった。胸の中にしみて来るような、強い色であった」。菜の花の印象的なシーンが何度も登場する小説のタィトルは 『菩提樹』。作は丹羽文雄です。

彼が崇顕寺の長男としてこの世に生を受けたのは、明治37年(1904)のこと。この頃、周囲一帯では菜種油を生産するために菜の花が栽培され、花の時期にはむせるような香りが町中に広がっていたといいます。

自身の生家を舞台に少年時代を自伝風に綴った『菩提樹』を読むと、一見のどかで平和な光景の中に、深い悲しみがあふれていることに気付くでしょう。

本来は寺を継ぐ立場ではありましたが、作家になる夢を持ち上京します。そして上京後の活躍は目覚ましく、次々と話題作を発表。昭22年に発表した「厭がらせの年齢」は、高齢者問題をいち早く取り上げ、その表題は流行語にもなりました。

半世紀にわたって常に第一線の作家として活躍した彼の功績は、作家という枠にとどまらず、文芸に携わる人々の団体「日本文藝家協会」の要職を歴任して著作権保護に尽力したり、相互扶助制度「文芸美術国民健康保険組合」設立に携わるなど、 文学者の社会的地位の向上に貢献しました。

昭和33年、本堂再建にともなう落慶法要に参詣した文雄氏

さらに文学を志す若者たちのために私費を投じて、同人誌『文学者』を20数年間も発行。河野多恵子、新田次郎、瀬戸内寂聴など、数多くの作家や評論家たちを育てました。

昭和52年(1977)、これらの業績が評価され、文化勲章を受章しました。

平成17年(2005)に100歳を全うしました。

現在も、「菩提樹」の中に鷺の森として登場する「鵜の森公園」の一角には、彼の句「古里は菜の花もあり 父の顔」を刻んだ句碑がたたずんでいます。

また、浜田小学校校歌も作詞、いまも児童に愛唱されています。

鵜の森公園石碑

鵜の森公園 丹羽文雄の石碑(三重県四日市市)

丹羽文雄記念室

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丹羽文雄生誕の地石碑