真宗高田派 崇顕寺について
崇顕寺は田原藤太秀郷(藤原)末胤、田原忠秀が文明元年(1469)浜田城を築き、孫元網の時元正三年(1575)に織田勢の滝川一益に滅ぼされました。この田原家の一族丹羽弥八郎時定が菩提のため、創建したといわれています。古くは天台宗の寺でありましたが、文亀二年(1502)に眞慧上人に帰依し高田派の寺とりました。
しかし天和元年(1618)の火災と、昭和二十年四日市大空襲で史料は消失しており、経緯の詳細は不明です。
中興時代
円遵上人の頃、当寺は門室との交遊も深く、本山のおかよい所となり、寺紋もりんどう車のほかに、裏菊のご紋(十六べん)も拝領しております。
明治時代
明治の中期、名古屋市則武より入寺した十七世教開上人は大須観音の山門に模した楼門を建立、鐘楼、庫裡、大玄関、参道石畳など寺門復旧に盡力しました。
昭和18年秋、崇顕寺鐘桜堂(山門)こののちに戦火で消失
昭和時代
昭和二十年第十八世房雄上人応召中に、四日市大空襲のため当寺は消失いたしました。上人復員後、授産・保育の福祉事業を推進し(現在の浜田保育園)、戦後の復興にあえぐ四日市市民を助けました。
現在の本堂は、昭和三十二年に完成しております。
現住職は十九世顕英。 作家として著名な丹羽文雄は、十八世房雄上人の兄にあたります。
昭和32年・大勢の檀家さんが見守る中での本堂上棟式の様子