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専修寺

親鸞聖人が関東各地を御教化中に、明星・天子の夢のお告げを得て、五十四歳のときに一宇を建立し、専修念仏の根本道場とせられました。ご本尊には、長野の善光寺からお迎えした一光三尊仏を安置し、聖人門弟の中のリーダーであった真仏上人が関東各地の檀信徒の中で最も有力な教団となり、京都へ帰られた聖人からはしばしば自筆のお手紙や、ご自分で書き写された書物などが送られて来ました。

その後、高田教団は次第に発展し、専修寺は「本寺」と呼ばれて全国から崇敬を集めるようになリましたが、それを一段と飛躍させたのが第十世真慧上人で'東海.北陸方面に教化を拡げると共に'朝廷の尊崇を得て、専修寺は皇室の御祈願所ともなりました。

一身田の専修寺はその真慧上人が伊勢国内の中心寺院として建てられたものでしたが、関東の本寺が兵火によって炎上したたため、歴代上人がこちらに居住されるようになって、ここが本山として定着しました。一身田専修寺の伽藍も二度の火災に遭いましたが、りっぱに再建され、擅信徒の崇敬はますます高まりました。今も大切に伝持され、教団の誇りとなっています。

高田本山専修寺 御影堂(重要文化財)

親鸞聖人のご生涯

平安時代の承安(じょうあん)3年(1173)の春、親鸞聖人は京都の日野で誕生されましたた。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)と伝えられています。

9歳の春、出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のり、ついで比叡山にのぼられ、不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間厳しい学問と修行に励まれました。

しかし29歳のとき、叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされます。

そこで聖徳太子の夢告を得て、本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の門をたたきその弟子となり弥陀の本願を信じ念仏する身となられました。

法然聖人の弟子となられてからすぐに頭角を現し、4年後の元久2年(1205年)法然聖人の主著『選択集(せんじゃくしゅう)』の見写を許されました。

親鸞上人坐像

そのころからおこりはじめた旧仏教教団から専修念仏への弾圧は次第に熾烈化し、ついに建永2年(1207年)法然聖人や親鸞聖人などの師弟は罪科に処せられ、親鸞聖人は越後(えちご新潟県)に流罪となります。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれます。

42歳の時、流罪を解かれ越後から関東に赴かれ、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられます。

このころ真宗の教えを体系的に述べられた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著されます。

親鸞聖人63歳のころ、関東での20年の教化(きょうけ)を終えられて、京都に帰られ晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著されました。

弘長2年(1262年)、親鸞聖人90歳で往生の素懐(そかい)を遂げられました。

丹羽文雄記念室

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